世界遺産「天台宗 別格本山 毛越寺」

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毛越寺について

重要無形民俗文化財延年の舞

 毛越寺に伝承される延年の舞は、開山以来連綿と行われてきた常行三昧供の修法とあわせて国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 雪の常行堂で正月二十日に行われる摩多羅神(またらじん)の祭礼を地元では俗に「二十日夜祭(はつかやさい)」と呼んでいます。
 明治15年ごろから、この二十日夜祭に合わせて厄払いの行事である蘇民祭が行われるようになりました。しかし、見物客が多数押しかけ、境内が荒らされるため、蘇民祭は昭和30年ごろまでに中止となり、代わって献膳行事が行われるようになりました。
 厄年の老若男女が、夜、平泉駅前に集合、たいまつの明かりを先頭に常行堂まで行進、仏前に大根や白菜などの野菜をささげ、無病息災・家内安全を祈願します。
 常行堂内では、古伝の常行三眛供の修法のあと、法楽に延年の舞が奉納されます。「延年」とは「遐齢(かれい)延年」すなわち長寿を表します。遊宴歌舞は延年長寿につながるというところから、諸大寺の法会のあとに催される歌舞を総称して「延年」と言ったのです。
 仏を称え寺を讃め千秋万歳を寿くのですが、曲趣は様々で、風流に仕組まれたものは漢土の故事などの問答方式に舞楽風の舞がついたものや田楽躍(おどり)など、当時の流行の諸芸を尽くして祝ったもののようです。
 現在、毛越寺には創建された当初の寺堂は一宇もなく、常行堂も享保17年(1732)に再建されたものです。仏像、仏具、書籍などの宝物も後世のもので、創建当時のものはほとんど残っていないのが実情です。にもかかわらず、形の無い延年の舞は、時を超えて今なお800年昔の姿のままに伝えられているのです。

延年の舞

 毛越寺の「延年の舞」は次のような順で進行されます。田楽踊の始まる前に「呼立(よびたて)」があり、二人の僧が田楽衆に囲まれ、向い合いに腰を下げ、足声(そくせい)という秘事を行います。
 「田楽躍」は、太鼓三人、編木(ささら)三人、瑟丁(しってい)伝でん(機織りに似た音を出す)一人、銅撥子(とうはっし・二個一対で指にはさんで打ち鳴らす)一人、笛二人の都合十人で構成されます。麻布の水干に裁着(たっつけ)、脚半(きゃはん)姿で、太鼓と編木方はクルミの樹皮に網代(あしろ)に編んだ笠をかぶります。笠の頂きには太鼓方は桜の造花を挿し、編木方は白玉椿の造花を飾ります。この花は笠花と呼ばれます。瑟丁伝と銅撥子の童師は日月模様の烏帽子をかぶり、周囲に四垂(しで)を垂れます。舞いは粧(けはい)、散(ちらし)、行道、立法(たちのり)、大水車、中八返、小水車、鳥ばみの8曲が伝えられています。陣形を変えて舞うもので、約40分要します。
 次の「路舞(ろまい)」は唐拍子(からびょうし)ともいわれ、古風な節まわしで上の句を一人が舞い、下の句を他が舞います。慈覚大師入唐の折に清涼山麓に二人の童子が現れて舞い、また大師が当山を草創された時に再び、忽然と童子が現れて舞った故事を伝えたものです。
 「祝詞(のっと)」は台詞(せりふ)を口中で、つぶやくように唱えるので、側からはほとんど聞きとれません。
 古来常行堂別当の大乗院が勤め、摩多羅神の御本地と御利益を唱え、御願円満、息災延命を祈ります。
 「老女」は、神前に蹲(うずくま)って白髪をくしけずる真似など、奇異な所作をします。「若女(じゃくじょ)」は、昔、鎌倉より神子(みこ)がこの地に下って舞ったことから、坂東舞ともいわれます。若女は金の風折に似た古実舞独特の烏帽子に水干の姿で、振る鈴の音にも趣があります。後から、禰(ねぎ)が一人からみます。
 「児舞(ちごまい)」は立合(たちあい)ともいい、桜の枝を肩にして向かい合うごく緩やかな舞楽風の舞で、春の息吹を感じさせます。花折と王母(おぼ)ケ昔の二曲が伝えられており、一曲ずつ干支隔年に舞うことになっています。花折では、当山四方の山河を愛で、千秋万歳の長保楽を取り入れて舞います。王母ケ昔では、シテが「吾は是れ天台山の傍に年来住める仙人にて候」と名乗り、桃花のいわれを語り、先年の春を寿ぎ、地謡に合わせて舞います。
 「勅使舞(ちょくしまい)」は京殿有吉(きょうどのありよし)舞ともいい、一種の典雅な狂言です。シテは立纓(りゅうえい)の冠に狩衣姿の勅使京殿左少弁富任(とみとう)、ワキは両手にバチを持つ狂言の有吉。越天楽(こんてんらく)を奏し、互いに物語をし、相舞いに舞います。
 このように、延年の舞の基調には、問答の答弁と、乱舞があると言えるでしょう。答弁と言っても即興性があり、乱舞も何か物語性を持った舞で、そのさわりを一差し舞うといった趣きがあります。
 このほかに、毛越寺には延年の能と言うべきものが数十番あったと言われますが、近年に残ったのは「留鳥(とどめどり)」「卒都婆(そとば)小町」「女郎花(おみなえし)」「姥捨山(うばすてやま)」の四番で、これを年二番づつ交互に演じました。
 四番の謡は完全に残っていますが、舞は明治維新後途絶え、現在「留鳥」だけは復興されています。

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