世界遺産「天台宗 別格本山 毛越寺」

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毛越寺について

平泉の世紀

毛越寺の創建

 医王山毛越寺金剛王院は、仁明天皇の嘉祥3年(850)、天台宗の高僧、慈覚大師が創建したと伝えられています。中枢伽藍(根本中堂)を嘉祥寺と称し、大師自作の医王善逝の霊像を本尊としています。常行堂も創立されて、ここで秘法を修したといいます。清和天皇の貞観11年(869)1月、「北門擁護の御願寺たるべし」との詔勅がありましたが、その後、盛衰とともに堂社僧坊が荒廃していきました。
 ようやく堀河天皇の長治年中(1104-6)、時の領主藤原清衡(1056-1128)、基衡(-1157?)父子によって再興され、常行堂も復興されました。鳥羽天皇に至り、勅使左少辨富任により円隆寺の宣下を受けたといわれ、勅額及び国家鎮護の勅願文を賜りました。藤原三代秀衡(-1187)は社堂坊舎を増築し、堂搭四十余宇、僧坊五百余宇と「吾妻鏡」(鎌倉幕府が編んだ歴史書)にも記されています。
 後鳥羽天皇の文治5年(1189)、先に藤原秀衡を頼っておちのびてきた源義経が秀衡没後、藤原四代泰衡に攻められて高館で自害。その泰衡も源頼朝に討たれて、藤原氏は没落したのです。頼朝は寺を巡視して武門の祈願所とし、寺領安堵の壁書を円隆寺の南大門に掲げました。
 土御門天皇の承元年中(1207-11)には、時の幕府が修営を命じ、その旧観を保持しました。また、順徳天皇の建保2年(1214)には後鳥羽上皇が一字三禮の法華経を納め、時の別当二位禅師良禅に祈願修法の儀の宣旨がありました。
 後堀河天皇の嘉禄2年(1226)11月、円隆寺、嘉祥寺、講堂、経蔵、鐘楼、経楼、文殊楼門等が焼失。後醍醐天皇の建武4年(1337)には、隣山中尊寺も金色堂と経蔵の一階だけを残してすべて焼失しました。
 室町時代になり、正親町(おおぎまち)天皇の元亀4年(1573)3月、領主葛西氏と大崎氏との戦火のため、常行堂、法華堂を残して、南大門、大阿弥陀堂(観自在王院)、小阿弥陀堂をはじめ、残りの社堂、坊舎をまたたくまに焼失しました。
 後陽成天皇の天正19年(1591)には、豊臣秀次が九戸凱旋の折立ち寄って、旧跡を巡覧し、「衆徒の還り住むべき」の教書を下し、若干の寺禄を寄附しました。
 しかし、最後まで残った常行堂、法華堂も、慶長2年(1597)4月には野火のため惜しくも焼失してしまいました。
 中御門天皇の享保13年(1728)、常行堂だけは再興され、祭礼その他諸掛を負担していた別当大乗院が、その後、堂を本坊に寄附しました。
 天明6年(1786)正月二十日に訪れた菅江真澄は祭礼を見て、貴重な記録(『菅江真澄遊覧記』霞玉駒形・他)を残しています。また、文政5年(1822)10月1日には、領主伊達斉義が北方巡視の折立ち寄り、常行堂にて延年の舞を見た記録が残っています。
 明治9年(1876)7月、明治天皇が義経堂にお立寄りになった際は、寺僧樹陰で古楽を奏し、鳳輦(ほうれん・天子の乗り物)を迎えました。
 平成元年に本堂を再建し、本尊薬師如来、脇士日光月光菩薩を安置しています。
 かつて広大な境内に大伽藍が建ち並んでいた毛越寺ですが、今は本堂、常行堂の他、大泉が池と様々の石組からなる浄土庭園、堂宇や回廊の基壇、礎石、土塁、それに堂塔十余、僧坊十七坊が残されているのみです。しかし、常行三昧の古修法と延年の催しが時代を越えて僧から僧へと伝えられ、茅葺きの常行堂内でひそやかに、しかし立派に継承されていることは、驚嘆に値することです。

造営者基衡

造営年代

 近世から明治初期まで、毛越寺は初代清衡が造ったとする説が有力でした。仙台伊達藩の学者佐久間義和の名著『奥羽観跡聞老(もんろう)志』(享和4年、1719年の自序)や盛岡南部藩の成立過程を記してある『南部根元記』(著者も著作年代も未詳)には、長治2年(1105)の造営と記されています。長治2年は初代清衡の治世で、これによっても清衡造営説が一般的であったことがわかります。明治19年の著作である高平真藤の『平泉志』にも、長治年間(1104-5)の建立とされています。
 しかし、相原友直(元禄16年-天明2年)が『平泉雑記』(安永9年頃作)のなかで、清衡造営説の誤謬を最初に指摘し、その後、諸氏によって基衡造営説が補説補強されていきました。友直は平泉文化研究史上、先駆者的学者であったと言われています。
 今では、毛越寺は基衡が晩年の久安6年(1150)から保元元年(1156)までの7年間に造営したとみなされています。

果敢剛腹な基衡

 大治3年(1128)7月16日、初代清衡は亡くなりました。しかし二代基衡の治世はすんなりとは始まりませんでした。清衡には妻室平氏との間に六男三女があったほか、腹ちがいの男子もいました。そこで清衡の死後まもなく相続権をめぐって兄弟間に深刻な紛争がおこったのです。
 当時の貴族、源師時(もろとき・1077-1136)の日記『長秋記』には、その事情が書き留められています。師時は詩歌に秀でて名声があり、後に権中納言となり、皇太后大夫を兼ねた人物です。『長秋記』によれば、清衡が死んだ翌年の大治4年8月に「陸奥国の清平の二子が合戦を始めたので公事(くじ・国への納税)欠怠(けったい)多し(とどこおりがちになった)」という噂が京に伝わったそうです。二子とは「兄弟基平と惟常(これつね)」だとあります。その翌年の大治5年6月の都の評判については、もっと詳しく記してあります。「さきごろ、清衡の長男で字名(あざな・通称)を小館というものが、その弟で字名は御曹子というものに攻められた。小館は子どもや従者二十余人とともに小舟に乗り越後まで逃げのびたが、弟の御曹子は軍兵を発して陸路から追撃し、小館父子の首を切った」。御曹子というのは、前出の基衡(基平)だと考えられます。また惟常はあとに述べた小館と同一人物かどうかは明らかではありませんが、正妻の子ではなく妾腹の子であったかと思われます。
 いずれにしても基衡は、果敢剛腹な人物として当時の説話を集めた『古事談』や『十訓抄』にも描かれています。初代清衡の跡を継ぐのには、申し分のない二代目であったことは間違いないようです。

清衡追慕の念深く

 激しい同族間の内紛が一段落し、基衡の相続権がゆるぎなく確立したのは、清衡が亡くなって10年も経ってからのことでした。ちょうどその頃、保延4年(1138)、基衡は「先考(亡父)藤原清衡の成仏得道のため妙法蓮華経」と金泥文字で書いています。この写経は現在、静岡県浜名郡妙立寺(東海道線鷲津駅下車)に残っており、奥書には基衡の写経の主意が明記されています。
 また、父清衡の死後12年の保延6年(1140)と死後20年の久安4年(1148)にも同じく「先考藤原清衡の成仏得道のため妙法蓮華経」を書写しています。大阪府南河内郡天野村金剛寺に、その証拠が残っています。
 当時、仏教信仰は一般的な風潮であったはいえ、基衡がいかに先考清衡を慕っていたかがしのばれます。剛直果敢な基衡には、このような意外な一面もあったのです。
 基衡の妻、安部宗任の娘が建立したと言われる観自在王院跡には、「基衡の室、安部宗任の女」と刻んだ墓碑が立っていますが、これには「仁平二年四月二十日有日」とあります。仁平2年は清衡の死後24年目、基衡の治世になって22、3年の頃ですが、この頃、基衡は妻室を失ったのでしょう。
 墓碑そのものは江戸時代の享保15年(1730)9月13日、村上治兵衛照信が建てたとされています。基衡の妻室の死亡年月日を知るための史料はこの墓碑だけですので、今のところこれが有力な説となっています。

年貢増徴を拒否

 清衡あるいは基衡の代から、平泉藤原氏は実質上の私営田領主、あるいは京藤原氏荘園の総預といった地位にあったと考えられています。清衡の死後20年経った久安4年(1148)、関白忠実は高鞍(たかくら・宮城県栗原郡)、本良(もとよし・同本吉郡)、大曽禰(おおそね・山形県東村山郡)、屋代(やしろ・同東置賜郡)、遊佐(ゆさ・同庄内地方)の5か所の荘園を子頼長に譲りました。頼長は悪左府と言われた史上悪名高い人物でした。高鞍荘については、すでに忠実の頃から年貢増徴問題がおこっていましたが、基衡は一切その要請には応じていませんでした。
 頼長は譲渡を受けると翌年ただちに年貢増徴を強硬に要求してきましたが、基衡はこれも再三にわたって拒否し続け、結局は清衡死後25年後の仁平3年(1153)、五荘のうち三荘については基衡の提案どおりに決着したのです。
 京藤原氏との間で数年にわたり紛争となっていた懸案の荘園問題でしたが、基衡に有利に解決することで幕を閉じました。悪左府と言われた頼長ほどの人物に対してさえも、基衡は剛直な姿勢を崩すことなく、毅然とした態度で臨みました。
 その精神は、造営した毛越寺や妻室のために建立した観自在王院に表れており、それらが初代清衡が造営した中尊寺に優るとも劣らない規模であったことを考え合わせれば、なるほどと容易に納得できることです。

揺るぎない勢力

 京藤原氏との荘園をめぐる年貢増徴問題係争中のこと。成佐という者が悪左府頼長に中国の故事を引用して、「匈奴(この場合は基衡のこと)はもともと無道なものである。必ずしも(頼長)の命令に従わないであろう。だから今まで紛争が長引いたのである」と、基衡と争うことの不可を進言したことがあると、頼長自身が日記『台記』に書き記しています。もちろん悪左府と言われた頼長も強引であったのでしょうが、基衡もそれに劣らず強硬だったことがわかります。
 初代清衡は、国司に対しては時に強硬な態度で臨んだこともありましたが、京藤原氏に対してはきわめて協調的でした。迎合的と言っていい部分もあったほどです。
 けれども二代基衡は決して剛直な態度を崩すことはありませんでした。これは基衡の生まれながらの性格もありますが、状況が大きく変化していったことにもよります。『吾妻鏡』に「基衡は果福、父にすぎ」とあるように、その頃になると奥州藤原氏の辺境在地勢力がいよいよ揺るぎないまでに拡大充実していたことが背景にあったと考えられています。

夭折(ようせつ)した基衡

 基衡の死亡年月日について、通説では保元2年(1157)3月19日とされていますが、実のところ明確ではありません。というのも、近世以前の史料で基衡の没年を記したものがないからです。近世になってからの諸書や毛越寺千手院の位牌などには、どれも一致して保元2年3月19日と記されています。
 基衡の死亡年齢もはっきりしていません。『吾妻鏡』には基衡は「夭死(ようし・若死した)」とあります。昭和25年3月の遺体調査によれば、「頭蓋骨縫合、脊椎骨、下顎骨等のレントゲン像より見て、三公中最も若く50-60歳位と推定される」とされています。脳腫瘍か脳溢血が死因らしく、永く臥床した形跡はありません。「肥満体質」で「豊頬であるから、しもぶくれの福々しい顔」、「首は太くて短く」「いわゆるいかり肩」「昔の謹厳なる礼法、具足の使用、剣術、弓術等を強行した痕跡が外後頭隆起にみられる」ということです。
 基衡の治世は、忠通の摂関時代とほぼ一致し、また鳥羽院政時代とも時を同じくしています。その頃から、平氏は忠盛が台頭し、そのあとをうけた清盛の上昇期でもありました。
 しかし、時は流れ人心は変わります。最近の発掘調査で、毛越寺の遺跡もまさに奇跡的に残っていたことが明らかになっていますが、盛者必滅の歴史の中で、事蹟も血脈も明らかな親子三代(泰衡の首級を入れると四代)の遺体が現在でも存在していることは、世界にも類のない「奇跡」と言えるでしょう。

毛越寺の善美

造営年代

 古来幾多の戦闘が繰り広げられた奥州を仏教によって浄め、陸奥辺境の地を仏国土とするという初代清衡の掲げた理想は、中尊寺となりました。二代基衡はそれを正しく受け継ぎ、さらに発展させていったのです。中尊寺をはるかに上回る規模で造営した毛越寺は、その所産でありました。
 その造営年代を明記した史料はありませんが、『吾妻鏡』文治5年9月17日条にみえる平泉衆徒提出文書には、次のように記されている箇所があります。
「一 毛越寺の事
 堂塔四十余宇、禅坊五百余宇なり。
 基衡これを建立す。まず金堂を円隆寺と号す。(中略)講堂・常行堂・二階の惣門・鐘
 楼・経蔵等これあり。九条関白家、御自筆を染めて額をくださる。参議教長卿は堂中
 の色紙形を書するなり。(中略)かくの如き次第、鳥羽禅定法皇の叡聞に達し…」
 これによって、九条関白忠通、参議藤原教長、鳥羽禅定法皇、基衡4人の共存関係から造営年代を推定すると、久安6年(1150)末から保元元年までの約6年の間の造営であったことになります。
 この期間は、清衡の死後24年目から29年目までの間にあたり、基衡晩年になってからの造営になります。中尊寺造営が清衡晩年であったこととも符号する年代です。

荘厳善美

 『吾妻鏡』によると、金堂円隆寺は金銀をちりばめ、紫壇赤木を継ぎ、万宝を尽くした荘厳さで、本尊として丈六の薬師如来、十二神像を安置してあったと言います。またこの金堂のほかに、講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵などがありました。二階惣門にかけられた額は九条関白忠通が染筆し、金堂内を荘厳に飾る色紙形は参議藤原教長が書いたものです。
 藤原教長は和歌にもすぐれ、藤原佐理の楷法(楷書の方法)を学びました。崇徳上皇に信任されましたが、兵をあげようとした上皇を諫めたが思い止めることできず、ついに保元の乱となりました。上皇方が負けるに及んで、教長は広隆寺で剃髪し、観蓮と称しましたが、結局は保元元年8月3日、常陸の浮島に流されました。
 毛越寺の本尊は、仏師雲慶作です。『吾妻鏡』には、本尊が制作されるに至った次のような逸話が記されています。
 基衡から本尊制作を依頼された雲慶は、上中下の三等級のいずれにするかと尋ねました。基衡は中と答えて、謝礼として金百両、鷲羽百尻、直径七間半もある水豹(あざらし)の皮六十余枚、安達(あだち)絹千疋、希婦細布(けふのせばぬの)二千端、糠部(ぬかのぶ・岩手県北部と青森県東半部の広域地名)の駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺(しのぶもちずり)千端等を贈りました。大変な物量で、完成するまでの三年間、これらの品々を輸送する人夫荷駄が山道、海道を絶えることがなかったと言います。
 ある時、別禄として、生美絹(すずしのきぬ)を船三艘に積んで贈ったところ、雲慶はうれしさのあまり冗談まじりに「嘉悦きわまりなしといえども、なお練絹(ねりぎぬ)こそ大切なり」ともらしたそうです。使者からこの話を聞いた基衡は大変後悔して、新たに練絹を船三艘に積んで贈ったと言います。すさまじき物量攻勢。当時の平泉の財力を如実に物語っています。
 このような評判を伝え聞いた鳥羽禅定法皇は、ある日、雲慶作のその仏像をご覧になりました。まさに素晴らしい出来栄えに驚嘆なさった法皇は「洛外に出すべからず」と持ちだしを禁じられました。このことを知った基衡は、「心神、度を失い、持仏堂に閉じ籠り、七か日夜、水漿(すいしょう・飲料)を断ちて祈請し」、九条関白忠通に善処を嘆願して、ようやく平泉への搬送が許されたといいます。
 これらの逸話は、念願の毛越寺建立のためには財力にあかした基衡の豪勢さと共に、ひたすらな信仰心と京風文化への切なる憧れの表れとも言えるでしょう。
 こうして毛越寺は、基衡、秀衡二代にわたって、堂塔四十余宇、禅坊五百余宇の壮大な伽藍配置が整えられました。寺院の善美を尽くした様子は「霊場の荘厳はわが朝無双」という『吾妻鏡』の評言に端的に表れています。また、昭和29年から5年間にわたって行われた庭園遺跡の発掘調査により、その善美は庭園にも及んでいたことが明らかになりました。

造営の視点

 毛越寺造営に賭ける基衡の視点がどのようなものだったかは、二階惣門にかけられた額の逸話からも伺い知ることができます。
 この額は『吾妻鏡』には九条関白忠通の自筆とありますが、『古事談』では忠通が厩舎人(うまやとのねり)菊方という者を遣わして取り戻したことになっています。
 『古事談』では「基衡、秘計をめぐらすといえども遂に責め取りて、三つに破りて持ち帰参すと云々。菊方の高名この事にあり」とあります。額を取り戻した菊方が主人忠通のいいつけに忠実であったということを賞賛するのが目的で、この話は臣節の部に収めてあります。基衡にしてみれば、せっかく手に入れた額ですから取り戻されるのが惜しく、秘計をめぐらして使者菊方を買収しようとしました。しかし、菊方は誘惑に打ち勝ち、主命を果たしたというのが、『古事談』の話の主旨です。
 この話が本当ならば、額は忠通染筆と偽称したものになりますし、真筆ならば菊方が主君を欺いたことになります。真相はともかくとして、基衡が?御室仁和寺(おむろにんなじ)の世話によって、莫大な運動資金を使って忠通に染筆させたことだけは、動かぬ事実でしょう。
 この話からも、基衡が毛越寺造営に賭ける執念に近い熱意と京文化に対する憧憬を抱き、財力さえあれば京の最高貴族をすら動かすことができるという自信を持っていたことがわかります。
 同時に、「奥(おく)の夷(えびす)基衡とかいうが寺」のものと聞き知って、いったん染筆した額を取り戻そうとした忠通。その意識の底には、奥州に対する根強い蔑視感があったのも事実です。こういった京の人々の感覚に対抗するためにも、基衡は京文化を越えるような文化を毛越寺に打ち立てようとしたのではないでしょうか。ただ単なる京文化追従とは思えない、基衡の強硬な一面が伺われます。

平泉落日

頼朝の威嚇

 文治三年(1187)10月29日、「北の王者」秀衡が亡くなりました。その翌年から源頼朝の政治工作が活発となり、平泉に対して二度の宣旨が出ています。最初は文治4年2月であり、二度目は同じ文治4年の10月です。どちらも四代泰衡と弟源義経への難問対策であり、泰衡への威嚇でありました。
 「前民部少輔藤原基成(当時平泉在住、泰衡の母の父)ならびに泰衡等に、義経を捕らえて出せとの宣旨をすでにくだしておいた。しかるに皇命を恐れず、みだりに弁解がましい子細をくどくどしく述べるとは、普天のもと、そんなことは許されるはずのものではない。そればかりでなく、義経が奥州中に出歩いているという確かな風聞があるのに、ぐずぐずして月日を空費している。このように、義経の野心に同調するということは朝威を軽んずることではないか。とくにも泰衡は祖跡の四代目を継承し、己の威力を一国にはびこらせている。かさねて泰衡等に仰せ付けるが、すぐに義経を捕えて召し出せ。もしも義経に同意しようなどと思うならば、きっと臍(ほぞ)を噛(か)むような後悔をするようになるぞ。よく宣旨の厳旨を守り、凶悪犯義経の誘引に同調しないのであれば、その勲功にしたがって恩賞を賜うであろう。もし凶徒(義経)に従うなら官軍を差しつかわして征伐するぞ」。
 このような威嚇的な頼朝の態度に、最初は「義経を総大将とし、一族結束して頼朝勢にあたれ」という秀衡の遺言に従っていた泰衡も、遂には屈服することになったのです。

義経の死

 文治5年閨4月30日(毛越寺伝は4月28日)、宣旨と頼朝の執拗な政治的圧力にたえかねた泰衡は、みずから数百騎を率いて、義経の宿所である高館を囲みました。義経主従はわずかに十人足らず。義経はまず妻子を自分の手で殺し、宿所に火を放って自害して果てました。源平合戦を華やかに彩り英雄となった稀代の戦術家義経は、ここに31歳の短くも悲劇的な生涯を終えたのです。
 泰衡は義経の首に酒をつけて、鎌倉の頼朝のもとへ送りました。その一方で、義経を討ってから2か月後の6月26日に、泰衡は義経に同調した弟忠衡(23歳)を宣旨にしたがって殺し、さらには弟頼衡をも殺しました。しかし、鎌倉からは依然としてなんらの恩賞もありませんでした。泰衡は義経の首と引き換えに平泉の地位の安泰を図ったのですが、これは結局平泉を救う結果には至りませんでした。
 泰衡が頼朝の命令どおり義経を殺しその首級を鎌倉に送った、ちょうどその頃、頼朝は着々と泰衡征伐の準備を進めていました。6月6日、頼朝は「奥州征伐を祈願するため」伊豆国の北条内に願成就院造営を発願し、起工供養をしています。また、同24日には平泉征伐軍出陣用の御旗一流の調達を、千葉常胤(つねたね)に命じています。
 『吾妻鏡』には「近頃は奥州征伐の沙汰のほか、他の事なし。軍士を催促したら鎌倉に集結するものすでに一千人。その名簿を頼朝が本日一見した。武蔵と下野両国の住人にも出陣準備を命じた」とあります。
 6月28日、頼朝は「奥州征伐御祈祷」のため、翌月の鎌倉八幡宮の放生会を繰り上げて行うことを決定。同29日には、日頃敬信している愛染王像を武蔵国の慈光山に贈り、その本尊とすることにしました。これも「奥州征伐御祈祷」のためでした。
 こうして着々と準備は進んでいましたが、すでに願い出ている平泉追討の勅許がおりません。頼朝は兵法故実に詳しい武家の長老大庭景能(おおばかげよし)を召して、「奥州征伐」について意見を求めました。景能は「軍中においては将軍の命令には従うが、天皇の詔などは聞く必要はないものだ。すでにその一件については(朝廷)に上申してある以上、勅許など待つ必要はさらにない。まして、泰衡は(源氏からみれば)累代の後家人のあとを受け継いでいる者にすぎない。(征伐開始の)理由はこれだけで充分である」と答えました。頼朝はこの答弁に感服し、恩賞として御?の御馬を与え、ここに出陣を決意したのです。天下統一を図る頼朝の意図は、泰衡の思惑をはるかに越えていたと言えるでしょう。

頼朝の執念

 平泉征伐は、決して義経の死によって急に思い立ったものではありませんでした。計画はそれ以前から準備されていたものであり、頼朝だけでなく源氏相伝の宿念ともいうべきものであったというのが、真相に近いと言えるでしょう。
 奥州は、前九年の征伐将軍源頼義、後三年の役の征伐将軍頼義父子以来、源氏にとって宿縁の地でした。その後、源為義が陸奥守就任を所望した時、平泉では豪気果断な基衡の治世でした。政府は「祖父伊予入道頼義、この受領(ここでは陸奥守のこと)に任じて貞任、宗任が乱によって前九年の合戦ありき。八幡太郎義家、またかの国守になりて武衡、家衡をせむるとて、後三年の兵乱ありき。しからばなお意趣のこる国なれば、いま為義、陸奥守になりたらましかば、さだめて基衡を亡ろぼさんという志あるべきか。かたがた不吉なり」(『保元物語』下巻、為義降参の事)という理由で許可しませんでした。
 拒否された為義は「しからば自余(陸奥国以外)の国守に任じてなにかはせん」と憤慨し、保元の乱に参戦するまではついに他国の国守になりませんでした。源氏にとって陸奥(奥州)は、「あの意趣ののこる国」すなわち宿願の国であったのです。また源氏のみならず、世間でもそのようにみなしていたのでした。頼朝にとっても秀衡は背後を脅かす厳然とした敵対勢力であり、両者は冷たい緊張関係にありました。義経の死に関わらず、平泉討伐は避けては通れない命題であったのです。
 『吾妻鏡』の宝治2年(1248)2月5日の条によると、「(鎌倉の)永福寺の堂の修理の事、当寺は右大将頼朝が文治5年に伊予守義顕(よしあき・義経のことである)を討ち取り、また奥州に入り藤原泰衡を征伐し、鎌倉に帰りたまいて後、陸奥出羽両国を知行せしむるの由、勅裁をこうむられた。これは泰衡管領の跡であったからである。しこうして今、関東の(武運)長久遠慮をめぐらしたもうのあまり、怨霊を宥(なだ)めんと欲して建立したものである。義経といい、泰衡といい、実はさしたる朝敵ではなかったのだ。ただ私の宿意をもって、誅亡したまでのことである。よって、その年のうちに(文治五年)永福寺営作を始めたのであった。したがって壇場の荘厳はひとえに清衡、基衡、秀衡(特に細字で「以上は泰衡の父祖なり」と註を加えてある)等平泉精舎に模した。その後60年の雨露が月殿(堂宇のこと)を侵し老朽化した。明年(慶長元年のこと、干支は巳酉)は義経ならびに泰衡一族滅亡の年の支干に相当している」。
 ここで注目すべきは、義経、泰衡両人が「さしたる朝敵」でもないのに、頼朝が「ただ私の宿意をもって誅亡した」ことです。「私の宿意」とは、個人としての頼朝の「私」ということのほかに、源氏の嫡流としての頼朝の「私」の意味がこめられているのではないかと言われています。このようにみてくると、為義の「意趣」と頼朝の「私の宿意」が結び付いてくるのです。
 また、頼朝が死んでその子実朝将軍の時代である建保元年4月4日条の『吾妻鏡』には、「陸奥平泉の寺塔破壊の事、はやく修得するようにとの主旨を本日、平泉地方の地頭に命令した。というのは、甲冑をつけた法師一人が尼御台所(頼朝の未亡人政子)の昨夜の夢枕にあらわれ、平泉の寺塔が荒廃していることは遺恨にたえない、と恨みことを言った。それでさっそく政子が命令したのである。昨夜の3日という日は、泰衡が殺された日である。であるから、夢枕に立ったのは彼の霊魂か。甲冑を着ているということは、なにか不測の変事が予想され、不審がつのるばかりである」とあります。頼朝の「私の宿意」によってなされた平泉征伐への悔恨の思いは、政子のみならず多くの鎌倉将士のうちに沈潜していたのかもしれません。
 平泉は罪なくして、無理無体な討伐を受け滅亡したと言えるでしょう。

奥州藤原氏滅亡

 文治5年7月19日、頼朝は総勢二十八万余騎を率いて、鎌倉を出発。兵を三軍にわけ、東海道大将軍は千葉常胤(つねたね)、八田知家、北陸道大将軍は企比能員、宇佐美実政、頼朝自身は大手として中路を進みました。迎え撃つ奥州勢十七万余騎。8月8日、阿津賀志(あつがし)山(福島県伊達郡)で最初の、そして最大の合戦となりましたが、たった4日間の戦いで平泉方は決定的な大敗北をきっしました。国分原鞭楯(仙台市)に本陣を構えた泰衡は戦わずして敗走。平泉まではたどりつきましたが、館に火をかけてさらに北へ逃げました。
 一日遅れて平泉に着いた頼朝は9月2日、泰衡探索のため出発。4日から陣が岡(紫波郡紫波町)に駐留中に、藤原氏累代の朗従である河田次郎によって泰衡の首が届けられました。泰衡が河田に殺されたのは9月3日、この時泰衡は35歳であったといいます。金色堂内秀衡壇の中に秀衡棺とともに納められている首級は、昭和25年春の調査によって泰衡のものと推定されました。
 初代清衡以来約百年間にわたって奥州の地に栄華を誇った藤原氏は、ついにここに滅亡したのです。

毛越寺炎上

 頼朝の征伐によって平泉が滅亡した年からわずか37年後の嘉禄2年(1226)に毛越寺は炎上しました。『吾妻鏡』同年11月8日条によると「陸奥国平泉の円隆寺は毛越寺とも号するのであるが、この寺が焼亡した。これよりさきに、円隆寺が火災にあうぞと鎌倉の街中を告げまわる者があったので不思議に思っていた。しかるに後日聞いたところでは、炎上した時刻が告げまわったのと一致している。この寺は荘厳(装飾の美しさといった意味)において、わが朝(わが国)無双(ならぶもののないほどすぐれている)なり。右大将軍(頼朝)が文治5年(1189)奥州征伐のとき巡礼されてから殊に信仰された寺であったのに」と、最大級の賛辞で愛惜の情を吐露しています。

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