世界遺産「天台宗 別格本山 毛越寺」

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毛越寺について

毛越寺の歴史

 医王山毛越寺金剛王院は、仁明天皇の嘉祥3年(850)、天台宗の高僧、慈覚大師が創建したと伝えられています。中枢伽藍(根本中堂)を嘉祥寺と称し、大師自作の医王善逝の霊像を本尊としています。常行堂も創立されて、ここで秘法を修したといいます。清和天皇の貞観11年(869)1月、「北門擁護の御願寺たるべし」との詔勅がありましたが、その後、盛衰とともに堂社僧坊が荒廃していきました。
 ようやく堀河天皇の長治年中(1104-6)、時の領主藤原清衡(1056-1128)、基衡(-1157?)父子によって再興され、常行堂も復興されました。鳥羽天皇に至り、勅使左少辨富任により円隆寺の宣下を受けたといわれ、勅額及び国家鎮護の勅願文を賜りました。藤原三代秀衡(-1187)は社堂坊舎を増築し、堂搭四十余宇、僧坊五百余宇と「吾妻鏡」(鎌倉幕府が編んだ歴史書)にも記されています。
 後鳥羽天皇の文治5年(1189)、先に藤原秀衡を頼っておちのびてきた源義経が秀衡没後、藤原四代泰衡に攻められて高館で自害。その泰衡も源頼朝に討たれて、藤原氏は没落したのです。頼朝は寺を巡視して武門の祈願所とし、寺領安堵の壁書を円隆寺の南大門に掲げました。
 土御門天皇の承元年中(1207-11)には、時の幕府が修営を命じ、その旧観を保持しました。また、順徳天皇の建保2年(1214)には後鳥羽上皇が一字三禮の法華経を納め、時の別当二位禅師良禅に祈願修法の儀の宣旨がありました。
 後堀河天皇の嘉禄2年(1226)11月、円隆寺、嘉祥寺、講堂、経蔵、鐘楼、経楼、文殊楼門等が焼失。後醍醐天皇の建武4年(1337)には、隣山中尊寺も金色堂と経蔵の一階だけを残してすべて焼失しました。
 室町時代になり、正親町(おおぎまち)天皇の元亀4年(1573)3月、領主葛西氏と大崎氏との戦火のため、常行堂、法華堂を残して、南大門、大阿弥陀堂(観自在王院)、小阿弥陀堂をはじめ、残りの社堂、坊舎をまたたくまに焼失しました。
 後陽成天皇の天正19年(1591)には、豊臣秀次が九戸凱旋の折立ち寄って、旧跡を巡覧し、「衆徒の還り住むべき」の教書を下し、若干の寺禄を寄附しました。
 しかし、最後まで残った常行堂、法華堂も、慶長2年(1597)4月には野火のため惜しくも焼失してしまいました。
 中御門天皇の享保13年(1728)、常行堂だけは再興され、祭礼その他諸掛を負担していた別当大乗院が、その後、堂を本坊に寄附しました。
 天明6年(1786)正月二十日に訪れた菅江真澄は祭礼を見て、貴重な記録(『菅江真澄遊覧記』霞玉駒形・他)を残しています。また、文政5年(1822)10月1日には、領主伊達斉義が北方巡視の折立ち寄り、常行堂にて延年の舞を見た記録が残っています。
 明治9年(1876)7月、明治天皇が義経堂にお立寄りになった際は、寺僧樹陰で古楽を奏し、鳳輦(ほうれん・天子の乗り物)を迎えました。
 平成元年に本堂を再建し、本尊薬師如来、脇士日光月光菩薩を安置しています。
 かつて広大な境内に大伽藍が建ち並んでいた毛越寺ですが、今は本堂、常行堂の他、大泉が池と様々の石組からなる浄土庭園、堂宇や回廊の基壇、礎石、土塁、それに堂塔十余、僧坊十七坊が残されているのみです。しかし、常行三昧の古修法と延年の催しが時代を越えて僧から僧へと伝えられ、茅葺きの常行堂内でひそやかに、しかし立派に継承されていることは、驚嘆に値することです。

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